光の素直でない反射

 春の淡い光の中で歪み、揺れ動いて映る像は仮象に過ぎないのだと思い、それなら実像は何なのかと問いたくなる。それは賢者ぶった悪魔の問いで、要注意。その問いに反応して、ガラス窓に映っている建物自体が実像なのだと言いたい誘惑に駆られるが、建物は像ではない。では、揺れ動くような像は仮象ではなく、実像なのか。哲学者についての解説が哲学でないのとは違った意味で、こんな風な質疑応答も哲学ではない。

 こんな頓珍漢な前段は何の意味もなく、だからきっぱり忘れ、ガラス窓が生み出す揺れるような反射像になぜ私たちは関心を持つのか考えべきなのである。揺れ動く像に惹きつけられ、そこから何が生まれたのか、何を知ったのか、何をつくったのかについて思いを巡らしてみよう。私たちが惹きつけられた先にあるのは光である。仮象も実像も光あったればこそのものに過ぎない。光への飽くなき好奇心は幾何光学、光の物理学をつくり出し、多くの絵画、中でも印象派の光り輝く絵画のきっかけとなった。

 そんなことより遥かに私たちの背骨になっていることがある。私たちは闇ではなく光の中で暮らし、光によって生かされている、そのことを忘れてはならない。私たちの現世は光に溢れた世界であり、光はいつも私たちと共に存在する。私たちは世界を見て、知るのであるが、それは光がなければできないことである。

*「神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て良しとされた。神は光と闇を分け」(創世記1:3−5)とある。キリスト教でも(そして、他の宗教でも)光が重要なのだが、その前に「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」(創世記1:1−2)とある。光は世界がつくられた後に別につくられたことになっている。

 では、今のインフレーション宇宙論での光はどうか。