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晴海、豊洲の歴史モザイク

 新市場のある豊洲から晴海大橋を歩いていく。結構な登りなのだが、左手には晴海埠頭が見えてくる。晴海は再開発が進み、タワーマンションや高層のオフィスビルが立ち並ぶ。さらに、中央清掃工場とその煙突は威風堂々といったところで、その左手にはかつての東京国際見本市会場跡地が無残に広がっていた。ところが、今ではクレーンが林立し、東京オリンピックパラリンピックの選手村の建設が始まっている。

 さて、眼を転じると、埠頭寄りの風景はガラリと異なり、鈴江コーポレーションの窓がことごとく閉じられた倉庫と晴海埠頭4号上屋(いずれも閉鎖)が廃墟の如くに並んでいる。倉庫脇には東京港湾局専用線という貨物専用の線路が埋まっていて、戦後の復興を支えた晴海埠頭の面影が偲ばれる。この辺は戦後の代表的な風景として、高層ビル群に張り合っている感がないことはないのだが、それにしても寂しい風景であるのは疑うべくもなく、兵どもの夢の跡なのである。

 それにしても、豊洲大橋が開通し、選手村ができたときに、この取り残された昭和の風景は一体どうなっているのだろうか。残しておきたい戦後と21世紀の風景をつくりたい気持ち、いずれを私たちは優先するのだろうか。強欲な私は両方ほしいと思うのだが…、その一方で、歴史は風景をモザイクのように分断したままで、その情け容赦ない力の前で翻弄される人々の蠢きが肌に突き刺さってくる。

*上屋(うわや):船と倉庫との間の荷さばきの中継作業を行う施設。埠頭で船舶が接岸係留する場所に近いところに設けられ,荷さばきのほかに乗降船客の待合室にも利用される。

 さて、この豊洲大橋の反対側、つまり右側に眼を転じると、そこは豊洲。春海橋の横に架かる晴海橋梁が眼に飛び込んでくる。これは旧晴海線の鉄橋で、周りの風景の中で取り残され、利用されずに「そこにある」だけの遺構である。これをつくったIHIはすぐ横に見事な本社ビルを構えるが、この橋梁は歴史的な建築物かと問われると困ってしまう。

 取り残されたままの晴海埠頭4号上屋や晴海橋梁が気になり、湾岸の鉄道輸送を調べてみる。歴史は1923年(大正12年)の関東大震災まで遡る。地震で陸上の交通網が壊滅。これをきっかけに東京港の本格的な整備が開始され、まず芝浦に日の出埠頭ができ、芝浦埠頭、竹芝埠頭と順次整備が進む。日の出埠頭への貨物輸送のために、「芝浦臨港線」が1930年(昭和5年)完成。今の「ゆりかもめ」は1962年以降の臨港線経路にほぼ沿っている。

 豊洲・晴海地区だけ見てみよう。第二次世界大戦後、芝浦側の埠頭が進駐軍によりほぼ接収されたため、豊洲埠頭の工事が1949年から再開され、1950年石炭埠頭が供用開始された。これに合わせて1953年越中島駅から豊洲石炭埠頭まで延長2,590 mの深川線が開業。

 豊洲地区への臨港鉄道が伸びると、そこから分岐した専用線も増えていく。1955年には、深川線から分岐して豊洲物揚場線(とよすものあげばせん)の最初の区間が開通し、その後順次延長工事が行われた。豊洲地区では、今話題の東京ガス専用線を分岐している。

東京ガスのガス工場(この跡地が今の豊洲新市場)は、石炭を処理して都市ガスを生産し、副産物のコークスを出荷するという枠組みで稼動していた。このコークスの出荷は、1971年には越中島駅の貨物取扱量の3分の1を占めていた。東京港の臨港鉄道は1965年頃には線路総延長24 kmまでに成長し、輸送量のピークを迎えた。だが、トラック輸送への転換が進み、輸送量は減少。深川線の輸送量の大きな部分を占めていた東京ガスの輸送も1977年に専用線が廃止となった。廃止となった路線跡は多くが再開発されたが、晴海運河に架かる晴海線の晴海橋梁は最大の遺構で、現在もそのまま残されている。

 晴海埠頭4号上屋と晴海橋梁は今のところ風雨にさらされたままだが、そのまま取り壊すのは何とも芸がなく、悔いが残るだけの愚策。