【そもそも人間学とは何か】 信じるとはどういうことか

知古嶋芳琉です。

 前回に引き続き、

人間にとっての素朴な信仰心とは何か

という問題を考察して参ります。

私たちコーチの仕事をやっている者であれば、

クライアントに対して、

『自分の力を信じて』とは

よく使う言葉です。

なぜならば、

私たちコーチにできることは

非常に限られておりまして、

ほんのわずかな力を貸してあげることしかできなくて、

クライアントが持つ潜在能力が

唯一の頼りの綱だからです。

ですから

コーチもクライアントも、

お互いに

相手の力を信じあうことができなければ、

つまりは

信頼関係を構築できなければ、

すべての努力は水泡に帰してしまいます。

結局は

クライアントのやる気と申しますか、

自発性なり

自主性・主体性がなければ、

私たちコーチは

全く無力になってしまいます。

そうは言っても、

そのままでは商売になりませんから、

クライアントにやる気を出させる

「モチベーター」の役も

演じることになります。

しかも、

持続的で

強烈なモチベーションや情熱を

かき立てることに成功すると、

クライアントのパワーは、

一気に爆発します。

クライアントの心の中に

そのような変化が生じますと、

うまくいけば、

信念とか信条にまで昇華され、

挙句の果てには

性分にまで

進化も変化もするようになります。

素晴らしい潜在能力を持った人の場合、

これが自動的に起こります。

自動的という言葉の意味は、

本人が意識したり努力することがなくても、

つまり、

無意識のうちに

そうなってしまうということです。

このような現象が起こるのは、

誰にでも当てはまることではなくて、

極めて優秀な

超一流の人物に限られます。

つまり、

まだ表面化していない潜在能力にも

決定的な格差があるということです。

ところが、

この格差を前もって知ることが出来るかというと、

残念ながら、

今のところは、

科学的に証明できるほどの方法はないようです。

一応は

誰にでも

基本的な

人権と言うものがあります。

なにも

わざわざ

角が立つようなことは

言えませんから、

誰にも

等しく

潜在能力は与えられている

ということにしているだけです。

決して

科学的とは言えないのですが、

やっぱり

血筋とか、

幼い頃の生活環境や

教育の程度あたりは

大きく影響しているようです。

では、

人間にとって

『信じる』とは

どのような心理が働いているのかについて、

安岡先生の

『東洋倫理概論』の現代語訳、

『人間としての生き方』から引用して

更に考察を深めてまいります。

−− 引用はここからです−−

第二編 敬義 中年の倫理

第一章 家庭生活

 第三項 祭祀と信仰

 ○ 信仰と信向と信

 私はその意味で、

とかく

一方的誤解、

すなわち、

敬のみの意味を免れない

「仰」の字を「向」の字に改めて、

内外に通ずるようにし、

「信向」とでもするか、

むしろ

信の一字を用いたいと思う。

すなわち、

宗教も道徳も共に

物我(自分以外の外物と自分)の迷妄を打破して、

自律自慊(じけん)的真我

(自分で自分の言行を律し、

自分で満足できる本当の自分の姿、真の我)

を確立しようとする

実践法を本質とするものであって、

そのうち

いずれかと言えば、

宗教は敬を主とし

帰依を旨とする

理想本位の修治であり、

道徳は懼(く:おそれる(恐)に同じ。

上の場合自己に返って催す。

危険を感じて不安になる。恐怖心を抱く。

よくないことが起こるのではないかと心配する。

おそれるびくびくする。)を主とし、

反省を旨とする

現実本位の修治であるに過ぎない。

 ○ 信と生活

 この信(仰、向)の故に、

王陽明にとって

破り難きは

山中の賊に非ずして、

心中の賊であった。

彼にしてみれば

内乱を平らげるくらいは

別段大したことではない。

もし、

よく

我々が

心腸の寇盗(しんちょうのこうとう:心のうちが

乱暴な盗人)を追い払い、

一掃して、

廓清平定(かくせいへいてい:世の中の乱れを

すっかり治める)という功を収めることは、

これ大丈夫の

世にまれなる偉大な功績なのである。

親鸞に、

「みなさんが十四カ国の国境を越えて、

命もかえりみないで訪ねてこられた目的は、

ただただ極楽往生の道を聞くためです。

だのに、私が念仏以外の往生の道を承知し、

また仏法の本(もと)などを知っているだろうと、

それを知りたいものだなどと

考えておられるのだったら、

大きな勘違いです。

もしもそうだったら、

南都北嶺(なんとほくれい:奈良の興福寺東大寺

などの諸寺と比叡山延暦寺三井寺)にも

すぐれた学僧たちがたくさんおられるのだから、

そういう人々にお会いになって、

往生の要旨を

充分にお聞きになったらよろしいでしょう。

私・親鸞にあっては、

『ただ念仏して弥陀に助けていただけ』

という、

すぐれた人(法然上人)のお言葉をいただいて

信ずるほかに

別のくわしいわけはありません。

念仏は、

ほんとうに

浄土に生まれる原因(たね)となるのでしょうか、

または

地獄に落ちる原因となる行いなのでしょうか、

私にはまったく判りません。

たとえ法然上人にだまされて、

念仏して地獄に落ちたとしても、

少しも後悔するようなことはありません。

そのわけは、

念仏以外のほかの修行に精を出して

仏になるはずであった身が、

念仏をとなえて地獄に落ちたならば、

それこそ

だまされて、

という後悔もありましょう。

自分は

どのような修行も

身に付かない人間なのだから、

どうしても

地獄は決まっている住家なのでしょう」

(『歎異抄』)

という説教があるが、

信の力の

いかに強いものであるかを

しみじみと感じ

悟らせられるではないか。

 信(仰、向)がなければ、

我々の生活は厳粛にならない。

決定的な力を生じない。

 ことに

家庭生活に

これがなければ、

互いに狎(な)れ合って

破綻を招きやすい。

政治に就いても、

孔子が子貢(しこう:孔子の弟子、弁舌が巧みで

金儲けの才があった)に答えて、

「止むを得ねば、

民の経済生活(食)はこれを見殺しにしても、

信(相手のことばをまこととして疑わない)だけは

民から失(うば)えない。

昔からみな死は免れないが、

民信なくんば立たぬ(<国家は>立っていかない)」

(『論語』、顔淵篇)

と教えているのは、

深く味わうべき言葉である。

−−引用はここまでです−−

ここからは知古嶋芳琉が書いています。

 この部分もまた

他の部分と同様、

週刊誌の記事でも読むように、

サラッと読み流したくらいでは、

到底

その奥深い教えを

学び取ることはできません。

例によって、

思いっきり

イメージを膨らませて、

何度でも瞑想を繰り返さなければ、

その真髄に迫ることはできないと思います。

このような世界に入り込んで参りますと、

既に理屈の世界とか

論理の世界を超越した、

『感性』の世界のことですから、

読者の感性が

如何に研ぎ澄まされているか

否かにかかっております。

そうなりますと、

安岡先生が文中でも語っておられるように、

精神生活そのものが

既に

堕落した生活を送っている人には、

なんにも感じ取れないどころか、

反発を招く恐れがあります。

特に、

セルフ・イメージが極端に低い人がそうです。

彼らは

宗教と言えば

人を現実から逃避させる

麻薬のようなものだと信じて疑いません。

特に

共産主義者は、

クーデターでも起こして国を乗っ取った暁には、

必ず宗教家を弾圧したものです。

東南アジアの国の中には、

知識階級とか医者や学校の先生に至るまで

大量虐殺したこともありました。

実に恐ろしいことですが、

現実に

政権をとった共産主義者

そんな

残虐な行為を

正当化して疑うことがありません。

あらためて申し上げますが、

ここでは

読者を

病院でカウンセリングを受けている人や、

カウンセリングを受けたほうがいい人を

対象にはしておりません。

読者は、

ある程度、

精神的に

健康を保っている人を

対象としていることをお断りしておきます。

なぜならば、

既に心を病んでいる人にとっては、

ここで語られているような、

人間の心理の

奥底の領域にアクセスするようなお話は、

刺激が強すぎて、

薬どころか猛毒となり、

極めて危険な凶器になってしまいます。

さらに言えば、

もともと凶暴性のある患者の場合、

カウンセラーが

患者から殺されるという

悲惨な事件が絶えないのも

無理はないのです。

もっと言えば、

だからこそ

患者の過去には

一切触れずに、

一直線に

回復の方向へと導く手法として開発されたのが

セラピーであったわけです。

ところが、

この手法にも欠点があって、

患者とセラピストのセッションの回数は、

大変な数をこなさなければならず、

必然的に

長期間を必要といたしました。

しかし、

時代の要請によって

何とか時間短縮ができないものかと

研究が深められ、

今までの欠点を

補うための手法として開発されたのが、

「ブリーフ・セラピー」

という手法でした。

そしてさらに、

もっと時間を短縮させた手法を、

今までとは全く異なる、

コーチング」

という手法にまで

昇華させたのが、

「ソリューション・フォーカス・アプローチ」

であったわけです。

そこまで進化した手法であっても、

クライアントの

健全な問題意識と

燃えるような向上心は、

必須の条件であり、

不可欠な要素なのです。

そういった意味からすると、

ここいら辺りのお話は、

誰にでも聞かせるわけにはいかない

お話なのかもしれません。

なぜならば、

この手法を悪用されると、

とんでもない犯罪者を育ててしまう可能性が

あるからです。

道具というものは、

一方では

確かに

世の中を良くするために役立つものですが、

一歩使い方を誤れば、

あのヒットラー

ドイツ国民を

熱狂的な

民族浄化政策の

信奉者にしてしまったように、

諸刃の剣となります。

残念なことに、

悪人ほど

頭がいいので、

事の本質を掴むのが上手だし、

悪用するにしても、

極めて巧妙な手段を

次から次へと

何重にも、

手を変え、

品を変えて

攻撃します。

しかも、

老獪ですから、

油断もすきもありません。

お話があらぬ方向に拡散してしまいました。

−−

 そもそもの始まりは、

安岡先生の宗教と道徳に関する記述、

『宗教も道徳も

共に物我(自分以外の外物と自分)の迷妄を打破して、

自律自慊(じけん)的真我

(自分で自分の言行を律し、

自分で満足できる本当の自分の姿、真の我)

を確立しようとする

実践法を本質とするものであって、

そのうち

いずれかと言えば、

宗教は敬を主とし

帰依を旨とする

理想本位の修治であり、

道徳は懼(く:おそれる(恐)に同じ。

上の場合自己に返って催す。

危険を感じて不安になる。恐怖心を抱く。

よくないことが起こるのではないかと心配する。

おそれるびくびくする。)

を主とし、

反省を旨とする

現実本位の修治であるに過ぎない。』

というあたりからの引用でした。

ここに出てきました、

『自律自慊(じけん)的真我

(自分で自分の言行を律し、

自分で満足できる

本当の自分の姿、

真の我)を確立しようとする実践法を本質とするもの』

というのは、

私たちコーチが

クライアントの皆さんを導く方向と、

見事に当てはまるのです。

なぜならば、

私たちは、

常に

自分で考えて、

自分で行動できる、

真の意味で自立(自律)した人を

育てることを目的としているからです。

安岡先生の他の講義録に出て参りましたような、

つまり、

『会して議せず、議して決せず、決して行わず』

と言って

中国の新聞から笑われた、

日本の国会のような、

ぶざまなことになってはいけないのであります。

確かに、

国会も会議の一つの形をなすものですが、

読者の皆さんもご存知の通り、

とても見てはいられない有様です。

中国の新聞から

馬鹿にされても、

少しもおかしくはありません。

だからこそ、

私は

ファシリテーションを学んだのですが、

世の中の会議という会議のほとんどが、

会議の本来の意義を失って、

形ばかりの

形骸化したものに

成り下がっている

悲しい現実があります。

この現実を見て、

9割の会議は不要である

と言う人まで出て参りました。

この意見には私も賛成です。

じつに下らない、

他人の時間を

盗み取る以外の何ものでもない会議が

溢れております。

その中でも

最も悪質なのが、

株主総会とか会員総会といわれる、

その組織にとって、

最も重要な議題を審議・決定しなければならない

会議であります。

ただ、

上場企業の株主総会については、

シャンシャン総会ではいけない

という風潮が起こり、

「物言う株主」が

少しは出てきたりして、

「マラソン総会」といって

数時間もかけた時期がありましたが、

それもほんの一時的なことで、

相も変わらず、

旧態依然とした会議のやり方に戻ってしまいました。

懲りない連中とはそういうもので、

これは

明らかに

日本人の

人間としての質が

劣化した証拠であります。

既に

賢明な民族とは

決して

言えなくなってしまいました。

これが

偽らざる現実なのですが、

この責任は

誰にあるのかと言えば、

それは

「みんな」にあります。

上から下まで、

みんなが

この状況を見て

見ぬ振りをしてきたし、

少しも改めようとはしなかった。

実にお粗末な民族であります。

あまりにも民度が低すぎる。

そんな人間が

すぐそばで生きていると思うと、

虫唾(むしず)が走る。

誰からも嫌われたくないからと言って、

事なかれ主義に陥り、

無為姑息を決め込む連中ばかりですから、

へどが出る。

そんな連中に

地獄の底まで

引きずり込まれてたまるか

と言ったところであります。

そうなりますと、

必然的に

周囲は敵だらけになって、

孤軍奮闘を余儀なくされます。

それでも、

勝つまで

闘わなければなりません。

もうこれ以上は、見て見ぬふりはできません。

なぜならば、

私が住んでいる

九州の片田舎の市は

「世界の環境首都の創造」を目指しているのに、

私が住んでいる所は、

少しも改善の動きがないばかりか、

ますます悪化の一途を辿っているからです。

そして、

もっと悪いことに、

作ったときは

大騒ぎをして作ったのに、

立派な

「市民憲章」が

ありながら、

これを顧みる人は

いなくなってしまいました。

かろうじて自治区会の総連合会が

これの浸透を計る方針を出しましたが、

木っ端役人が

アリバイ作りのために掲げた、

形ばかりのものなので、

具体的な動きが全くありません。

ですから、

こんな状態では、

私が理想とする住環境には

ほど遠いわけです。

これでは、

私の心の中に

義憤の感情が起こっても

当然なのであります。